当たり前といえば当たり前のこんな事実。「わりと「そういうもの」」であったはずの学問研究が、いつしかどう描いても不安な未来(これも私自身が勝手にとは言わないまでも描いているものであるが)に侵食されて、すっかり‘不幸’な今を生きていた私に喝!!最近執筆活動盛んな内田先生のブログを読んでいて発見。要は発想の転換。「師」と呼びたい人に出会えたからこそ続けてきた研究。何故こんな単純なことを忘れていたのだろう。

博士課程を出て、オーバードクターを何年かして、それでも専任の口がなければ、あきらめてまた会社勤めをしようと思っていた。
でも、そのことは私の学習意欲をそれほどには損なわなかった。
というのは、「いずれサラリーマンになってしまうのだとすれば、思い切り勉強できるのは、今しかない」と考えたからである。
「結果をどう評価されるかという期待で不安になること」よりも、「自分がやりたいことを思い切りできる今の身の上を幸運と思うこと」を優先させたのである。
だから、博士課程において、私は学力は決して高くはないが、研究のモチベーションだけは非常に高い院生だった。
そのとき私は「こうやってばりばり勉強していれば、きっといつか『いいこと』がある」という未来予測の確かさに支えられて勉強していたわけではなく、「こうしてばりばり勉強できるという『いいこと』が経験できるのは、いまだけかもしれない」という未来予測の不透明性ゆえに勉強していたのである。
学問研究というのは、わりと「そういうもの」ではないかと思う。

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