『ディアドクター』@新宿武蔵野館

蛇イチゴ』、『ゆれる』に続く、西川美和監督の3作目『ディア・ドクター』。

釣瓶師匠演じる、過疎化の進む農村で皆から絶大なる信頼を寄せられていた唯一の医者の失踪から物語は始まる。

人間のどろどろを超えた本音のところの感情の襞とか、間合いとか、やっぱりこの人の作品は、好き。

そして、僻地医療云々といった社会問題としてではなく(伏線としてはあるけれど)、‘人間’が描かれることで、ここんとこずっと考えていた日本の医療のことを改めて考えさせられた。

最後の最後、私は大切な人をどう見送りたいだろう?
最後の最後、私はどう終わりを迎えたいだろう?


さて、話は変わって(ないけど)。

さらなる高齢化が進めば医療費が高騰するのは必然だと思うのだが、国はなんとか医療費の高騰を抑えるために(抑えるどころか削減か・・・)、病床を減らして、‘在宅ケア’を推し進めようとしているらしい。

現実的に、‘家族に見守られる中、自宅の布団で安らかに息を引き取った’美しい事例がたくさんあることは知っている。

一方で、在宅は、長引けば長引くほど、生まれてくるのは、どうしようもない憎しみに似た感情だということは、実家でのがんを患った伯父の約2年にわたる看病でなんとなく想像ができる。

おかしな話、進行性のがんだから2年だったが、認知症ほかでは何十年といったこともざらにありうる。

最後までしっかり大切な人を‘幸せに’看病・介護したいという思いと、心の中にうずまく不穏な思いは矛盾しない。

しかも‘家族’と同居しない独居の高齢者はさらに増加するだろう。

たしかに、専門家による24時間体制が整った他国の例にあるように‘独居でも在宅’自体は不可能ではないのだろうが、‘家族の’看病・介護を前提条件として進んでいるように思えてならない日本型の在宅の、‘病院ではなく自宅の布団で家族が見守る中・・・’の合言葉は、どうしてもきれいごとに聞こえて仕方がない。

数年前、中学時代のクラスメイトが介護に疲れて自分の母親を殺したとき、それがじぶんではなかったと言い切れないと、背筋が凍った。

このきれいごとでは済まされないどうしようもない感情を前提に、あるいは‘家族’という前提を前提からは外した上で、在宅ケアを含む、これからの終末期医療および介護福祉は構築されるべきでは・・・?

なんてことは後日うだうだと考えつつ。


最後に自分に寄り添ってくれる存在が、医師であれ、なんであれ、いてくれたら、いてくれることが、幸せかも、と思ったラストシーン。