『井手孤独』@シアタートラム 2005/5/28 PM7:30開演


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舞台中に敷き詰められた畳状のシートは赤い肩幅大の赤い枠で四角に囲まれていて、柔道の試合会場と共に日の丸を髣髴させる。ナショナリスティックなものを感じさせる舞台の左奥にはグランドピアノが配置されている。


井手を見るのは初めてだった。舞台に登場した井出を見て内心驚いた。とてもコンテンポラリーとは結び付かない。有体に言えば小太りのチビ。しかし、スーツを身に纏いサラリーマン姿の井出が、観客に背を向け摺り足で首を垂れそぼそぼと歩く姿を数分間見つめていれば彼が上級の踊り手であることはすぐに判明する。


音もなく、哀愁すら漂う地味なサラリーマンのボソッとした感じを30分(近くに感じたのだが、それ以上だったかもしれないし短かったのかもしれない)ほど表現していたかと思うと一転してテンポの速い音楽と共に高島田をつけた井出が踊り始める。この時、同時に正面に掛けられていた掛け軸が落ちる。特大の掛け軸にはこれまた特大の「俺」の文字。


スーツ姿に高島田。一見異様に思える組み合わせで踊る井出が、昭和の雰囲気を漂わせる電子釜を持って踊りだすと妙な一貫性がそこに生じる。高島田――スーツ(サラリーマン)――電子釜・・・この瞬間、私の中で弾かれることなくただ置いてあるピアノの意味するところが突然腑に落ちるように感じた。極端なナショナリズムから戦後、高度成長期を経て現代に至るまでの「日本」が凝縮されているように思えた。「ピアノ」は一億総中流社会を形成していく過程で中流の証ではなかったか。もっとも現在ピアノはバレエ(ダンス)にその勢力を奪われてしまっているらしいのだが。


他にもベルバラの主題歌を井手自身が熱唱する場面(上手いのがまた可笑しい)があったり、焼き芋屋のおっちゃんの声に合わせての振りなど時代を感じさせかつユーモア溢れる演出が至るところに施されていた。


今回の舞台からは日本的なものを濃く感じた。それはナショナリスティックなものを感じさせるものですらあったが、誤解されないよう言及しておきたいことは、井出が日本を売り物に舞台を創造していたということとはニュアンスが異なるということである。日本的であるということはキッチュでもありえる、つまりそのこと自体を井手の舞台は笑い飛ばしていたように思う。であるから日本的なものを表現に取り入れる際の胡散臭さはあまり感じられなかった(胡散臭いのであるが胡散臭くないのである)。


井手の舞台から私が感じたことはこのようなことであったが、アフタートークでの井手の話を聞いていたら肩透かしを食らったような軽い眩暈を覚えた。高島田は井出が大きなヘッドフォンをしている人を街で見かけた時それが高島田に見えて面白かったから取り入れてみたということであったし、電気釜については電気釜を弁当箱にして持っていたら面白いし、サラリーマンも大変だなということが伝わるんじゃないかと思って、などとのんきな風体で始終語っていた。私が舞台から感じたことは彼が意図的にやったことであったのか否かは井手自身のことばからはわからなかった。彼がはぐらかしてすっとぼけているのか本当にすっとぼけた男なのかの判断はまるでつかなかった。


いずれにせよ、おかしな男である。